逝くとは?/ セントラルファイナンス
[ 1418] オンナSEが逝く!
[引用サイト] http://www.aade.co.jp/aade/web/blog/
|
今までChoco(投稿者)の権限ではシステムに触れなかったため、社長に申請して管理者権限に変更してもらい、ようやく怪しげなところを直しましたん♪ このBlogの更新を、首を長ーくして待ってるウチに“キリン”になっちまった方がどのくらいいるかは存じませんが、ひとまず再開です(笑) 私が一緒に仕事をしているチームに、I氏@ヨン様似の(SEにしちゃ)一見「爽やかイケメン」風味なヤツがいるんですよ。 いかんせんこのギョーカイは、何度も言っているように女子率が低いので、そんなイケメンでもキャーキャーもてはやされる場面など皆無。 つまりは、2〜3月はその大詰めになり、時に(実際稀とは言い難い確率で)残業の日々を送る羽目になります。 このBlogを更新するヒマがあったら少しは睡眠時間に充てなきゃ体力がもたないなーという大義名分を心の中でつぶやきつつ、書くのをサボっていたワケですなw あくまでN氏@老けた吉田栄作似を中心に、既参加者やたまたま同じプロジェクトチームで仕事しているアナデジメンバーが半強制的任意に集い開催されているものでございます。 都度メンバーは(残業他仕事の状況などで)入れ替わったり人数もマチマチなのですが、地味にその活動は維持され現在に至ります。 そんな乾いた世界でも、せめて性別がオンナという人種が存在すれば、チョコのひとつでも貰って悲しむ輩はいないはず。 そんなワケわからんポリシーにより、今年は同じチームのリーダーN部長@老けた吉田栄(以下略)と、隣席でいつもがんばってくれているY氏@アバクロ好きに「お歳暮」的チョコをあげてみました(笑) ソフトウェアハウスや企業のシステム開発室等、SEがはびこる職場というものは、以前もちらと書きましたが、かなり男女比率がおかしいのです。 30手前までの約10年、あたしはメーカー・流通・広告代理店と多種多様な業界を経験しましたが、どこも半数とまではいかなくても、一般職(いわゆるOL/あるいはお局)の方々が、ある種幅を利かせておりました。 だが、ただでさえオタクやゲーマーなどの、いわゆる「アキバ系」の多いこのギョーカイでは、(社内外を問わず)皆バレンタインなどどこ吹く風状態。 いくらオトコに囲まれようと、おおかたどこもそんなヤツらばかりなので、いくらイベント好きなあたしでも盛り上がる気分にすらなりませぬ。 いったいヤツらはバレンタインというイベントが何を意味するか知っているのだろうかと、小一時間問い詰めたい気分になりますです……(;´Д`) |
[ 1419] 極東ブログ: 安藤百福、逝く
[引用サイト] http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2007/01/post_81ce.html
|
安藤百福が五日亡くなった。九六歳。天命とも言うべきかもしれないが、死に際して心筋梗塞で苦しくなかっただろうか。チキンラーメンの開発者であり、カップヌードル開発の事実上の総指揮者でもある。近年の連ドラ「てるてる家族」やプロジェクトX「魔法のラーメン 82億食の奇跡」などで生前から伝説化が進んでいた。確かに日本的な苦労とジャパニーズ・ドリームを実現したような人生である。が、日経新聞に掲載されていた「私の履歴書」の書籍化「魔法のラーメン発明物語」(参照)を読み返すと、そうしたわかりやすいグレートマン伝説とは少し違う、昭和史を体現した興味深い人物が浮かび上がってくる。 魔法のラーメン発明物語私の履歴書安藤百福 安藤が伝説のチキンラーメンの開発に取り組んだのは私が生まれた年、昭和三二年のようだ。その時、彼は四七歳。翌年開発に成功する。ざっくり見て、安藤百福の今日の栄光のスタートは五〇歳であった。顧みて四九歳の自分には人生をやり直してチャレンジするような気力はない。まるでない。安藤はもの凄い人だと思う。 安藤にとってこの開発は人生七転び八起きの一つに過ぎなかった。彼は製塩業に失敗し、次に理事長をしていた信用組合が破綻した。「魔法のラーメン発明物語」にあるこのエピソードが面白い。彼の信用組合は都銀を「母店」としていた。 やがて不足金が設定融資限度を超えると、母店の姿勢は一層厳しくなった。「担保もあることだから、もうしばらく猶予がほしい」とお願いしたのだがだめだった。 ついに不渡りを出し、取り付け騒ぎが起きた。信頼していた母店が、真っ先に担保に入れていた組合の建物と敷地を差し押さえた。その時の銀行の冷たさはひとしお身に染みた。信用組合は破綻し、私は理事長としてその社会的責任を問われた。 私はまたしても財産を失った。残ったのは大阪府池田市の住まいと、身を焦がすような後悔だけだった。バチが当たるというのはこういうことを言うのだろう。責任を持てない仕事は、いくら頼まれても軽々に引き受けてはいけないのだ。必ずだれかに迷惑をかける。 さらっと読み過ごしてしまうが、この手の話はある程度類似の経験した人でないと分からない娑婆の本性というものがある。安藤はこのことを忘れなかった。 ある取引先の頭取から「安藤さんの会社はカネを借りてくれないから面白くない」と言われたことがあるが、日清食品を創業して以来、無借金経営を貫いている。 そう貫かれてしまうのもどうかと思うが、この気概は昭和史を見る一つの視点にはなる。そして彼はこう考えた。 私は過ぎたことはいつまでも悔やまない。「失ったのは財産だけではないか。その分だけ経験が血や肉となって身についた」。ある日そう考えると、また新たな勇気がわいてきた。 このエピソードを読み返しつつ、なぜ彼が信用組合の理事長となったのかが気になった。というのは、彼は戦後史においてウォルフレンの言うような信用権を授与された人ではなかったか。 プロジェクトX挑戦者たち第4期 Vol.2魔法のラーメン82億食の奇跡カップめん・どん底からの逆襲劇 チキンラーメン開発に至る安藤百福の人生をそうしたジャパン・アドミニストレーターズと信用権の関係で見直すと、少し違った風景が現れる。彼はある意味で選ばれた人だったが、同時にその選択と信用権に常に距離を置いていた。国家というものに対して「私」の本義ともいうべき感性を持っており、そのためには死に瀕するのも厭わないようだった。その辺りに彼の本当の成功の意味がありそうだ。 気になるエピソードが二つある。彼は一つは戦中、憲兵の拷問で殺されかけたことだ。その頃安藤は軍用機エンジン部品の製造会社を共同経営していたのだが、官給品の横流し疑惑で憲兵にしょっぴかれた。 「そんなことはありません。私は被害者なんです」と懸命に主張したが、有無を言わさぬ暴行が加えられた。棍棒で殴られ、腹をけられた。揚げ句は、正座した足の間に竹の棒を入れられた。拷問である。 いつの間にか、私を犯人にした自白調書が作られ、判を押せと強要された。罪を認めれば、この責め苦からは解放される。しかし、私は抵抗した。死んでも正義は守りたかった。 まったくひどい話で、しかも真相は憲兵と横流し者が親戚で彼を陥れたことらしい。こうした歴史のエピソードを読むことで時代の感触がわかる。この不正極まる世間が常態でもあった。 この拷問の後遺症で彼は二度の開腹手術をすることになるのだが、そこまで耐えた悲劇からどのように脱出したか。それは彼の仲人だった陸軍中将によるものだった。この辺り、安藤に対する疑念というのではないのだが、すでに選ばれた人でもあったことが伺われる。 戦後も安藤は似たような罠に嵌められる。起業し若者に奨学金を出していたのが脱税とみなされGHQにしょっぴかれた。 乗り出してきたのは税務署ではなくGHQだった。大阪の軍政部で裁判が開かれ、たった一週間で「四年の重労働」という判決が出た。裁判では、こちらの言い分は一切聞いてもらえなかった。 大阪財務局から財産が差し押さえられ、泉大津の家も工場も炭焼きした兵庫県の山林も、私名義の不動産はすべて没収された。身分は巣鴨プリズン(東京拘置所)に移された。 巣鴨には、戦争犯罪の容疑やパージで逮捕された政治家、言論関係者、財界人らが収監されていた。面識のあった岸信介さんとも偶然、一緒になった。 裁判が進むうち、税務当局の役人が「訴えを取り下げてくれないか」と言ってきた。取り下げるなら、即刻自由の身にしてもいいという。もし私が裁判に勝てば、反税運動を勢いづかせることにもなりかねない。旗色が悪くなったので、妥協を迫ってきたのだと思った。 日本権力のいい加減な挙動が浮かび上がる奇妙なエピソードでもある。その内部抗争や時代の空気の流れで、多くの日本人が事実上抹殺されてきたのだろう。安藤は残った。成功した。その人生は多くの敗者と死者の義を暗示させていると思う。 日清食品の創業者で、インスタントラーメンの生みの親の安藤百福さんが5日、急性心筋梗塞のため死去しました。96歳でした。 ものごころついた頃からインスタントラーメンというものはありましたけれど、よくよく振り返るとこれは食文化史に革命をもたらした発明と言えるものなのですね。 何と言ってもこの人は全世界に貢献したあの素晴らしいモノを発明した人なのです。ちなみに死ぬほど偉大です。 そんな凄いものを発明したこの安藤さんですが遂にお亡くなりになりました。なぜこの人にそこ... [続きを読む] 弁当おぢちゃんに質問。向こう見ずの阿呆を駆除するにはどうしたらいいですか? 窮鳥懐に入らずんば猟師も此れをズドン! で相討ちが理想ですか? そうなればなったで、窮鳥は必ず逃げると思うんですけど。どうですか? 運営ポリシー広告を目的としたトラックバック、引用集からのトラックバック、エントリの内容に関係ないコメントは削除します。 |
[ 1420] 早すぎたスーパーカー 加藤博一氏逝く(野球) ― スポニチ Sponichi Annex ニュース
[引用サイト] http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2008/01/22/01.html
|
大洋、阪神などで外野手として活躍した加藤博一(かとう・ひろかず)氏が21日午後0時54分、肺がんのため神奈川県横須賀市内の病院で死去した。56歳だった。俊足巧打を武器に大洋では高木豊、屋鋪要と「スーパーカートリオ」を結成し話題を呼んだ。現役引退後は野球解説者として軽妙なトークなどでお茶の間の人気者となり、バラエティー番組などでも活躍。一昨年から闘病生活を続けてきたが、今月になり容体が急変。帰らぬ人となった。 加藤氏は家族に見守られながら息を引きとった。遺体が戻った逗子市内の自宅で取材に応じた二男の眞一さんは「一昨年から体を悪くして…」と語るのが精いっぱいだった。 加藤氏の所属事務所によると、06年冬に肺がんが見つかり、昨年2月に手術。それでも、その後は野球解説の仕事に復帰。7月に左太腿にがんが転移していたことが発見されたが、手術はせず、放射線治療や抗がん剤による治療で入退院を繰り返した。病床にはオリックス・清原からサイン入りバットとサイン色紙が激励のため届けられたという。生前、加藤氏が現場に駆けつけた時は抗がん剤の影響で髪の毛は抜けて帽子姿だったが周囲には「髪が抜けちゃったよ」と気丈に振る舞っていた。最後まで持ち前の明るさを失わずがんと闘ってきたが、ついに力尽きた。「現場に戻りたい。グラウンドに戻って野球を見たい」が口癖だった。 多久工(現多久)から70年にドラフト外で西鉄(現西武)に入団。76年に阪神に移籍してレギュラーに定着。79年に江川から初本塁打を放つなど“江川キラー”として活躍した。83年に移籍した大洋では2番に定着。85年には48盗塁とリーグトップの39犠打をマーク。高木豊、屋鋪要と3人で148盗塁を記録し「スーパーカートリオ」として話題を呼んだ。髪形はパンチパーマ。ユニークで明るい性格から人気者となり、打席でのテーマ曲「蒲田行進曲」が元になったスタンドからの「ヒロカズコール」はハマスタ名物となった。86年にはプロ17年目で初のオールスターにも出場した。 90年の現役引退後は、テレビのスポーツニュースで巧みな話術と持ち前の明るい性格を発揮。解説にバラエティーの要素を加えた野球キャスターの草分け的存在となり、一躍お茶の間の人気者になった。解説者の後輩には「グラウンドに誰よりも早く行って、選手の話を聞くんだ」と指導。自らが苦労して定位置をつかんだ経験から、現場では選手の話を親身になって聞くなど、現役選手からの信望も厚かった。金本(阪神)、松井稼(アストロズ)らも加藤氏を慕っていた。誰よりも野球を愛し、野球を熱く語ってきた。スーパーカーのごとく56年の人生を走り抜けた加藤氏の“ヒロカズ節”はもう聞けない。 |