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足利銀行とは?/ セントラルファイナンス

[ 489] 足利銀行 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E9%8A%80%E8%A1%8C

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当時より地元密着・堅実経営で知られ、例えば、地元の繊維産業に対する融資は手形割引を中心とする短期貸出により行われた。また融資に際しては、不動産担保は忌避され、担保物権の現金化が迅速に行える棚卸資産担保が好まれた。不渡手形が生じた貸出先があると、行員が昼夜交代で会社の前に張り込み、棚卸資産を手に入れようとする他の債権者を追い払い、素早く処分したため、他行からは「逃げの足銀」「石橋をたたいても渡らない」と言われた。
地方銀行としては最初に1914年5月には東京支店を開設して情報収集機能を強化した。また、川崎財閥との提携では大不況の到来を察知し、1920年、融資額の実に3分の1を回収し、その後の昭和金融恐慌のによる貸倒被害を最少限に押えた。
1944年までの戦時統合にて、県内6行を合併・12行を営業譲受し、一県一行となる現在の足銀が発足した。これ以降、歴代頭取は日本銀行出身の遠田淳・藤松正憲・関根太郎、日本興業銀行出身の岡一雄と、4代続けて東京財界出身者によって占められたが、彼らは、東京にて昭和金融恐慌を直接経験した世代であり、漫然たる融資を常に諌め足銀伝統の「地元密着・堅実経営」の姿勢を崩さなかった。
しかし、プロパー行員からは"生抜き頭取"を望む声はかねてから強く、そんな中で衆目を集めていたのが向江久夫であった。
向江は、もともと鹿児島県出身、陸軍幼年学校から陸軍士官学校卒で終戦時には陸軍大尉。その後、東京大学法学部に入学し、在学中に司法試験に合格したが、終戦時に陸軍将校であったため公職追放により法曹界には入れなかった。1947年、27歳の時に日銀理事の紹介で足銀に入行し、陸軍士官・東大卒・司法試験合格という華麗なる経歴は、1948年に全国銀行協会懸賞論文で一位入選したことで、「足銀に向江あり」と全国に知れ渡り、将来の頭取候補と言わしめられるようになる。
バブル全盛期の1991年1月、金融機関のテレビCMが解禁されると、よみうりランドのアシカと、地元出身アイドルの小田茜を共演させたCM「アシカが、よろしく。」を放映、人気を博し一躍有名となった(関東ローカル#関東ローカルのテレビコマーシャル参照)。当時の向江頭取の号令により、足銀は行内で「鶴翼作戦」(鶴の胴体が栃木、頭は仙台・郡山、右翼が茨城、左翼は群馬・埼玉、そして尾は、東京・名古屋・大阪を指したという)と呼ばれる融資拡大路線を展開する。後に、"融資効率化"と称して審査部門と新規営業部門を統合する本部機構改革を行い、野放図な融資姿勢を鮮明にする。
1975年に93ヶ店だった店舗数は、20年後には212ヶ店へと倍増し、1985年に2兆3000億円だった貸出金は1995年には4兆8000億円となった。当時の中曽根民活によるリゾート法の追い風もうけ、鬼怒川温泉や那須高原のゴルフ場といった地元観光業、地場パチンコ店などにも過剰融資を行った。地元で賄い切れない融資額は東京に流れ、一時、東京支店の貸出残高が本店営業部を抜き、都内5ヶ店の貸出金総額は1兆円を超えた。つまり、地銀でありながら、地元で集めた資金を東京他県外で運用していたことになる。さらに、足銀本体以外にも系列ノンバンクである北関東リース・足銀リースを通じて不動産融資を積極的に行った。当時、これに疑問を呈する向きは少なく、逆に「地銀の雄」「地銀の住友銀行」などと賞賛された。1989年7月、向江は全国地方銀行協会副会長に就任、1990年には足銀の預金順位は地銀第5位となり栄華を極めていた。
1990年の入行式で向江は「当行には自由な空気があり自由闊達にものが言え、下からの盛り上がりもある。」と挨拶していたが、実際、向江頭取の周囲はその意を酌み積極融資で実績をあげる幹部が重用され、結果的にイエスマンで固められることになる。向江のワンマン振りを語る次のエピソードがある。向江の社長(後に頭取)昇格3ヶ月前の1978年3月、日本橋にあった東京支店が、丸の内の郵船ビルへ移転となった。このビルは前月2月に完成したばかりで、賃料も当時国内最高部類といわれた。他地銀の東京支店が、地銀村と呼ばれる日銀を中心とした一帯に軒を連ねる中、あえてこの一等地に支店を移した理由として、当時内外では"東京支店二階頭取室より皇居前広場が一望できた"からだと囁かれた(その後、東京支店は再び日本橋に移転することになる)。
2003年3月には子会社・北関東リースとの株式移転で金融持株会社「あしぎんフィナンシャルグループ」を設立し、同社の完全子会社となったが、これは同3月期に単体で赤字だった同銀行の優先株復配を果たす目的なのが明白であり、多くの批判を受けた。
2003年9月期の中間決算で、会計監査を担当する中央青山監査法人が、繰延税金資産を計上しないよう通告、この結果債務超過に陥った。栃木県および地元選出国会議員は、預金保険法102条第1項の1号措置(いわゆる「りそな銀行方式」、この方式なら足利銀行はそのまま存続できる)を要請したが、金融庁は、預金保険法102条第1項の3号措置、つまり一時国有化(特別危機管理)を決定し経営破綻、地方銀行としては初めての適用であった。
2005年2月、足利銀行現経営陣は、2001年3月期決算における違法配当や、建材会社やゴルフ場への不正融資の責任を巡って向江久夫・元会長ら歴代頭取3名を含む旧経営陣13人を相手取り、総額46億円の損害賠償請求を宇都宮地方裁判所に3件提訴した。その後、2007年9月、柳田美夫・元頭取ら8人とは、個人資産のうち当面の生活資金としての100万円分以外を処分し賠償に充てることで和解が成立、和解調書には"重大な任務懈怠があった"として経営責任を認める文言が明記された。
また、破綻にいたるまでの粉飾決算を見過ごしたとして中央青山監査法人(のちのみすず監査法人)等に対して損害賠償請求を提訴していたが、2007年7月、足銀側が2億6500万円の和解金を受け取ることで和解が成立した。
2006年11月2日、金融庁は受皿に求める基本的な条件を提示し、受皿候補の公募を宣言した。2段階の審査を経て、2007年9月21日に同庁は受皿の最終審査に入ることを発表、11月22日までに受皿候補より同行の企業価値評価を含む譲受条件等の提出を受けた。同庁は受皿候補の数や名称を一切公表していないが、各種報道を総合すると、関東地区を中心とする地銀8行と日興シティグループ証券の連合、野村証券グループ連合が最終審査に残っているとされる。
北関東リース株式会社との株式移転による、金融持株会社「株式会社あしぎんフィナンシャルグループ」を設立、同社完全子会社となる。
金融庁は足利銀行を野村証券グループを中心とする陣営に譲渡する方針を決めた。譲渡額は3000億円超とされる。
栃木県内にあるコンビニATM「イーネット」のATM(全て当行が管理)において、直接提携でない金融機関(MICS経由での利用)のキャッシュカードで引き出しを行うと、通常より105円高い手数料がかかる(平日日中は210円、平日夜間・土日祝日は315円)。破綻の影響との関連性は不明だが、「イーネット」と直接提携していない金融機関のカードを利用する場合には注意が必要である。
当行の口座では、毎月25日(土曜・日曜・祝日の場合は直前の平日)はコンビニATM(セブン銀行及びイーネット)での引き出し手数料が105円減免され、午前8時45分〜午後6時までは無料となる。多くの企業が給料日としており、ATM利用者が急増するためのサービスとして実施している。

 

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