山本とは?/ セントラルファイナンス
[ 1313] 山本五十六 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E4%BA%94%E5%8D%81%E5%85%AD
|
明治37年(1904年)、海軍兵学校を卒業。席次は7番。その直後日露戦争が勃発し、日本海海戦において少尉候補生として乗艦していた装甲巡洋艦「日進」の艦上で、左手の人差指と中指を失う重傷を負う。 海軍次官を経て、昭和14年(1939年)8月30日、 中将の山本は、聯合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)に就任する。次官当時からの懸案事項であった日独伊三国軍事同盟に最後まで反対する。航空機による時代の到来を予期し、大和の建造に反対し日米開戦にも反対していた。 また国力の違いも認識しており、昭和15年(1940年)、当時の首相・近衛文麿に「初め半年や一年は随分暴れてご覧に入れます。しかしながら、二年、三年となれば全く確信は持てません」と発言している。この発言は、国力差の見地で言われたと伝わっているが、本人が定年退職を1年後に控えているため、自分が指揮をとれば戦争に勝てるという意味であったとの説もある。開戦決定以後は短期決着のため、特に航空機に力を入れる。その結果、真珠湾攻撃にはじまる、大東亜戦争初期は日本軍を有利に展開させ、国内では英雄として扱われる。緒戦の成功から、慢心していたとも伝えられ、ミッドウェーの戦闘中は、将棋で遊んでおり、ガダルカナル戦の最中は戦艦大和の司令官室で、愛人にラブレターを書いていたともいわれる。苦戦が続く中、徐々に鬱状態になっていたと宇垣纏参謀長は綴っている。 山本の死は一ヶ月以上秘匿され、5月21日の大本営発表で公になった。同年6月5日、日比谷公園で国葬が行われた。葬儀委員長は米内光政が務めた。また、ドイツより剣付柏葉騎士鉄十字章を授与(5月27日授与)される。この勲章の受章者は159名しかおらず、山本は唯一の外国人受賞者である。 日米開戦が開始されると「短期決戦・早期和平」という日米間に於ける国力の差を冷静に分析した現実的な作戦計画を実施しようとした。 等、旧日本海軍軍人の中でも傑出した名将としての評価は今日でも高く、敵であったアメリカ側からも山本五十六を賞賛する意見が多い。彼の教育者としての側面は現在でも高く評価され、彼の遺訓である「男の修行」は、警察予備隊、保安隊、そして自衛隊各教育隊の教育方針として引き継がれている。 山本自身主に軍政畑を歩いてきた人物であり、連合艦隊司令長官就任も采配・指揮能力を買われたものではなく、三国同盟に強硬に反対する山本が、当時の軍部内に少なからず存在した三国同盟賛成派勢力や右翼勢力により暗殺される可能性を当時の海軍大臣米内光政が危惧し、一時的に海軍中央から遠ざける為に連合艦隊司令長官に任命するという避難的人事を行ったと云う事情もあり、実戦指揮能力の低さを批判するのは酷であるとする意見も少なくはない。実際、戦後発見された山本から友人に宛てた手紙等により、開戦の際には米内を連合艦隊司令長官にした上で、自身は海軍中央へ戻り軍政面で米内を支え、日米開戦の火消し役をしようと考えていたらしく、自らの実戦指揮能力に疑問を抱いていたとも言われている。 山本が日米開戦時に連合艦隊司令長官ではなく、海軍大臣或いは海軍次官等の政治に意見を述べられる立場にいたのであるなら、その先見性と判断力をいかんなく発揮できたのではないかとする、山本五十六の軍政家としての能力を惜しむ意見も多い(例えば、秦郁彦なども戦略家としての山本には否定的であるが、軍政家としてはそれなりの評価をしている)。艦隊勤務の経験が浅かった故に、海戦術のドグマに捉われず航空機の有効性に気が付き、航空戦を重視する主張を行い得たとする意見もある。 真珠湾攻撃やミッドウェー海戦に見られる様にその作戦計画は国力にそぐわず、また非常に大きな危険を伴う作戦であった。 兵学校出身者のエリート集団の団結を重んじるがあまり、賞罰において、失敗した部下に対する責任を曖昧にした。これは後に作戦の分析・評価が機能しない土壌を生み出した。 これらの理由により、平均点以下の「凡将」あるいは「愚将」であったとする辛辣な評価を下している意見もある。これに関しては、1948年の段階でサミュエル・モリソンが真珠湾攻撃を「愚手」と斬って捨てているように、比較的早くから出てきた見方でもある。但し、真珠湾攻撃の投機性については、もともと徹頭徹尾米国との開戦に反対しており、それでも強いて米国と戦うならばこの作戦以外ないとのギリギリの判断から出たもので山本自身の判断力の限界から出たものではないとする反論もある。 3番目から5番目の理由に関して、一番槍玉に挙げられているのは黒島亀人に関する事項である。山本は黒島を自身の戦死の寸前の頃まで長く手元に置いた。「同じ参謀が作戦を練っていたのでは、手の内が見破られる」との忠告に山本は「黒島は独創的なアイデアを出すので手放せない」と断り、あるいは「黒島のような人物がいないと天下の大事は成し遂げられない」とかばった事がある。山本の人の好き嫌いが極端に現れた例として、山本を戦略家としては否定する理由に挙げている一方で、人材面で黒島に代わる適当で有能な人物がいたのかどうかという反対意見もある。ただし、山本は戦死の直前、「黒島を他の者に代えようと思う。誰が良いと思うか」と小沢治三郎らに相談していた、と言われている。 人事について最も疑問とされるのは南雲忠一に関してであろう。真珠湾への反復攻撃を「南雲はやらないだろう」等と、彼が航空部隊の司令として適任ではない事を充分に承知していながら、ミッドウェー作戦にあたって彼を小沢もしくは山口多聞などのより適任と言える者に代える事をせず、大敗の後も更迭するどころか南太平洋海戦で雪辱の機会を与えてさえいる。特に最後の件に関しては情実を疑われても仕方のないところである。 また山本は嫌いな相手に対しては極端にこれを避け、言葉を惜しむかの如く切り口上で話したという。宇垣纏に対する冷遇はその顕著な例である。そして反対する相手を説得し、自分の考えを理解させるというプロセスを特に苦手とし、その為に彼の真珠湾やミッドウェー作戦における真の狙いや、戦争遂行そのものに関する構想を周囲の者は理解できず、この齟齬が作戦遂行に多大の支障をもたらした、と言われている。山本の失敗は、彼の戦略戦術そのものよりも、彼自身の本質的な内向性や人間不信に起因すると評する史家も少なくない(半藤一利など)。 山本氏は源満政を祖とする清和源氏の一流である。戦国時代には三河の小豪族として成長したが[1]、桶狭間の合戦後に徳川家康が岡崎に自立して三河を平定していくなかで、永禄8年(1565年)牧野家と山本家は共に家康に臣従、直参旗本となった。天正年間、山本成行のときに、家康直参のまま上州大胡藩の藩主となっていた牧野康成に与力し、その後そのまま牧野家の家臣となった。元和4年(1616年)に牧野家が越後長岡藩主に加増移封されると、山本家は上席家老連綿(上席家老職を世襲する家)1100?1300石の家格に定着した[2]。 大政奉還後の越後長岡藩は、初め中立を模索したが新政府軍にこれが認められなかったため、奥羽越列藩同盟に加わって官軍と交戦した(戊辰戦争の北越戦争)が、近代化された兵力に勝る官軍に敗北。新政府から戦争責任を追及されると、藩主は新興の筆頭家老・河井継之助と譜代の上席家老・山本帯刀を反乱の首謀者として報告し恭順した。河井は敗走中に病死してすでに亡く、山本は捕われて処刑され、両家はともに家名断絶となる。しかし北越戦争の事実上の責任者は河井継之助で、彼が新興微禄の家老だったため、高禄譜代の上席家老だった山本帯刀がこれに添えられるかたちで犠牲にされたことは否めなかった。このため維新後牧野家では、家祖の代から深いつながりがあった山本家の家名再興を使命として尽力することになる。 山本家は戸籍の上では明治17年(1884年)にいったん再興されたが、戸籍内に男子がない「女戸」とされたうえ、その女子も死亡すると廃家となった。 再興が実現したのは北越戦争から半世紀以上を経た大正4年(1915年)、旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男・五十六が海軍大学を修了して、海軍で佐官以上の地位が約束されたときのことだった。牧野忠篤子爵はこの31歳になる高野五十六の将来を見込んで、彼が山本家を相続するかたちで家名を再興することを提案したのである。 高野家は元々信濃上田藩の家臣だったが、慶安元年(1648年)高野七左衛門のときに牧野家に再仕官し、40石の馬廻り衆(中級藩士)となった。その後延享年間に高野秀右衛門が家老・山本勘右衛門の補佐をしたことを機に、以後代々高野家は山本家と深い関係を持つようになり、100?150石の大組(上級藩士)として郡奉行・勘定方支配・取次格などを務めるまでになった。北越戦争の敗戦で河井・山本の両家老家が廃絶となると、代わって戦後処理で活躍した。 山本は博打が好きで、腕前もかなりのものだった(特に将棋とポーカーに強かったらしい)。山本曰く「博打をしないような男はろくな者じゃない」。ちなみに山本は「予備役になったらモナコに住み、ルーレットで世界の閑人の金を巻き上げてやる」と語ったと伝えられるが、そのモナコではカジノ協会から出入り禁止令を受けている。 戦艦大和を旗艦としていた頃、機関科の乗員に依頼して、軍用の小銃の実包を自分の猟銃に使用できるよう違法改造させた、というエピソードが伝わっている(辺見じゅん著『男たちの大和』に詳しいが、実際はその猟銃は彼のものではなく参謀長だった宇垣纏が使っていたものだという)。また、戦艦武蔵に旗艦を移した後、休憩時間に甲板上で幕僚らとビールを賭けて輪投げに興じ、彼が一番強かった、というエピソードが『戦艦武蔵』(吉村昭著)に紹介されている。 旗艦乗り組みの下士官兵の間では、艦内で出会った際に敬礼すると、ほとんど同時に正確な挙手の答礼を返してくる、と言われていた。 山本は逆立ちを得意としていた。逆立ちに関する逸話としては「アメリカ行きの船の中で催されたパーティーで、階段の手摺の上で逆立ちを披露した」「妙義山頂の岩の上や急流下りの舟の舳先などで逆立ちを行い、皆がハラハラする様を楽しんだ」といった話が伝えられている。 当時の海軍軍人の例に洩れず、山本も女性関係が派手だった(但し彼は玄人の女性を対象にしており、当時の倫理からは逸脱はしていなかった)。女性に対して細やかな気配りを見せ、得意の逆立ちで宴席の場を盛り上げる等、花柳界ではかなりの人気者だったらしい。その一方で山本は下戸であり、一説によると彼の徳利には番茶が入っていたという。 山本はナショナルジオグラフィック協会の会員でもあり、ナショナルジオグラフィックを購読していたらしい。 山本五十六の語録に見られる「やってみせ 言って聞かせて させて見せ ほめてやらねば 人は動かじ」「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」や「苦しいこともあるだろう 言い度いこともあるだろう 不満なこともあるだろう 腹の立つこともあるだろう 泣き度いこともあるだろう これらをじっとこらえてゆくのが 男の修行である」の「男の修行」は格言として評価が高く、座右の銘としている経営者や指導者は多い。「やってみせて…」は上杉鷹山の「してみせて 言って聞かせて させてみる」から影響を受けているとされる。 アメリカ着任時、日本では専売指定されていた砂糖と塩がともにプラントで大量生産され市井で大量消費されていることをワシントンの喫茶店で身をもって知り、彼我の物量の圧倒的な差にショックを受ける。後に軍縮会議出席のため渡米中、山本がコーヒーに多量の砂糖を入れて飲むのを見た同席者が「ずいぶん甘党ですね」と声をかけると、「できるだけ(仮想敵である)アメリカの物資を使ってやるんだ」と冗談半分に答えたという。 山本はロンドン海軍軍縮会議の次席随員として派遣されたが、現地で最も強硬に対米7割を主張して若槻礼次郎全権を困らせ、大蔵省から派遣された賀屋興宣が、財政面から軍備の大きい負担には堪えられないという旨の意見を言おうとした際に「賀屋黙れ、なお言うと鉄拳が飛ぶぞ!」などと怒鳴りつけ、青褪めた賀屋が慌てて言葉を飲み込んだという逸話がある。 佐藤賢了によると、太平洋戦争開戦直後に岡敬純が本来御前会議に提出する筈だった資料を佐藤の下に持ち込んだ事があり、その資料のデータからはとても戦争を遂行するのは不可能であると判断せざるを得ないようなものだった。会議に提出した資料のデータは山本が勝手に書き換えたもので、佐藤は岡に対して「どうして反対しなかったんだ!」と怒鳴りつけたが、岡は「海軍の中で誰も山本に楯突く事はできない」という旨の答えしか返せなかった。この事から、佐藤は生涯山本の事を許さなかった。 東郷平八郎に対しては、自身の同志や友人を海軍から追放した経緯から否定的な感情を抱いていたとされる。東郷神社が建立された際、「面倒臭いことをやって貰って[3]神様になったのだから、拝めば何か御利益があるだろうよ」と周囲に皮肉交じりに語ったと伝えられている。 真珠湾攻撃の成功により、海軍内で自らが軍神の如く扱われることに不満を持っていたと云う。戦死後周囲から山本神社の建立を求める意見が出されたが、生前山本の意思を承知していた米内光政から「故人の主義にそぐわない」として、神社建立が中止になった。 戦死時、山本の遺体を最初に発見した第6師団第23連隊の某小隊長の証言として、『山本長官の遺体は座席と共に放り出されていた。そして軍医長が地を這って近寄ろうとして絶命した痕跡を残していた』としている。また、他の遺体が黒焦げで蛆虫による損傷が激しいにもかかわらず、この二名だけは蛆も少なく比較的綺麗な形で残っていた。つまりこれが本当だとするならば、不時着から暫くは両名生存していたと言う事になる。 上記関連事項として、軍医の検死記録によると『機銃弾がこめかみ(眦とも)から下アゴを貫通しているため、ほぼ即死』とのことだったが、攻撃隊のP38戦闘機の機銃は12.7mmであり、頭部に命中すればまず頭半分は吹き飛ぶはずである。山本の頭部を打ち抜いていたのは、間違いなく拳銃弾などの小口径の銃弾となる。それゆえに「山本は自決した」「何者かに射殺された」などとする想像をかき立てた経緯がある。 一説によると長岡空襲は、当地が彼の故郷であったというだけの理由で行われた。しかしこれを断定できるだけの史料は、米国公文書館には存在していない。山本五十六の故郷が新潟県長岡であるとの記録が残るのみである。しかしながら、米国マスコミの取材に、当時の軍関係者が、山本五十六の故郷だから国民の戦意喪失のために空襲をしたとエピソードを語っている映像がTVで報道されたことがある。また長岡空襲を紹介した書籍・文献などに山本五十六の故郷だから、空襲が行われたともいうとの記述が散見される。長岡空襲は、市民を怯えさせるように大量の焼夷弾がB-29から落とされて、市内の約8割を焼き尽くしたが、軍施設・公共施設より市街地が中心に狙われるなど、一般の空襲と目的が違っていたことが伺える。但し、当時の長岡市には、理研の研究所があり、長岡空襲は、この理研を攻撃することが目的であったとも言われている。 山本の映像は戦死直前にラバウルで撮影されたものと、海軍病院船氷川丸を訪問した時のものが残っている。前者は日本ニュースで紹介され、後者は記録映画「海軍病院船」で見ることが出来る。 肉声はロンドン海軍軍縮会議(1934年の第二次軍縮予備交渉)の代表を務めた際に、当時開設されたばかりの日英間無線電話(国際電話)を介して録音されたものだけである。国葬当日の夜に特別番組「在りし日の山本元帥」の一つとして放送された他、旧海軍軍楽隊メンバーが集まって録音した行進曲集のレコード・CDにも東郷平八郎のそれとともに収録されている。音質が非常に悪いが、大まかな内容としては、前半では交渉団が日本を出発した翌日(1934年9月21日)に襲来した室戸台風の被害にあった人々への見舞いの言葉と復興を願うコメントを述べ、後半では山本自身や松平恒雄を含めた関係者が総力を集めて交渉成立に向けて全力を注いでいる、といったものである。なお、録音の中で山本は「海軍少将」と言っているが、渡英中に海軍中将に昇進している。 山本の墓は多磨霊園と故郷・長岡の長興寺にあるが、後者にある墓は2004年10月23日の新潟県中越地震で倒壊し、翌2005年4月に復旧した。また、山本が長岡に帰省するたびに立ち寄っていた曹洞宗の禅寺・堅正寺も倒壊。この寺は1964年の新潟地震でも被害を受け、「もう一度地震が来たら倒れる」と言われていた。 山本の生家は長岡空襲で焼失し、現在は山本記念公園となっている。ここには復元された生家や胸像が建っている。この胸像はもともと全身像で、かつては霞ヶ浦にあった海軍航空隊にあったものであったが、終戦後の1948年に進駐軍による取り壊しを避けるために、密かに霞ヶ浦に投げ込んで湖底に隠され、後に引き上げた際胸部のみを長岡の山本元帥景仰会が貰い受け、ブロンズ像に鋳直したものである。また、公園の向かい側には山本五十六記念館があり、家族や親友に宛てた手紙や軍服などの遺品、ブーゲンビル島上空で戦死した時に搭乗していた一式陸攻の左翼などが展示されている。 長男・義正が、府立一中を受験するに当たって、居宅を鎌倉材木座から青山南町に移している(後に一中父兄会の理事に就任した)。なお、青山南町の居宅は東京大空襲で焼失した。 |